甲種一類の恋
はるかひなたへシリーズ3
「写真を撮らせてもらえませんか」
背後からかけられた声に、遥(はるか)は振り返った。と同時に固まった。
「マト……」
傍らの美桜(みお)が、遥の心の声を口にする。
サングラスはないものの、某映画の主人公のような黒づくめのコーディネートは、上背があるその男によく似合ってはいた。
「佐藤陽向(ひなた)といいます。ドナルド・イェンってご存知ですか?僕はドナルドの弟子で、これ名刺です」
差し出された名刺は光沢のある黒色で、銀色の波紋の上に佐藤陽向の文字。ドナルド・イェンといえば人気アーティストのジャケット写真で有名な写真家だ。
「美桜、どうするの?」
クールビューティーな友人に名刺を渡そうとしたところへ、佐藤陽向が割って入る。
「いえ、貴方を撮りたいんです」
「へ?」
思わず間の抜けた声が漏れ、遥は口元を手で覆った。同期の美桜はよく街で呼び止められるし、社内でも『高嶺の花』と呼ばれる美人さんなので、てっきり。
自称カメラマンの顔を眺めている間に、美桜が名刺を取り上げしげしげと吟味する。
「遥に目をつけるなんてなかなかだけど、名刺なんてどうにでもできるしね……遥、受けるならついていってあげるけど?」
「いやいやいや、写真とか!無理無理!」
どちらかと言わなくても写真は苦手な分野だ。誤魔化しが効くアプリならともかく、あんな見るからに高性能なカメラで撮られるなんて何の罰ゲーム?
「無理じゃないです」
黒づくめのカメラマン(仮)はそう言いながら、肩に掛けていた一眼レフのファインダーを覗く。
「貴方は綺麗です。すごく」
もはっ、とか
むがっ、とか、
とにかく不明瞭な悲鳴が上がる。不細工ではないと思いたい普通顔で生きてきた遥にとって、唐突な全面的賛辞は仰反るほどのむず痒さしかない。
「特に目が美しい」
「うっ…ほほ他をあたってくださーい!」
聞き慣れない単語は心臓に悪くて仕方ない。心地よいテノールが居た堪れなくて、遥は猛ダッシュで逃げ出した。
年齢=彼氏いない歴ではないけれど、およそ日本男児は恋人にだって、素面で甘く囁くのは不得手なのだ。
雑踏をすり抜けて交差点に辿り着くと、程なくして美桜が横に並んだ。
「もー急に走らないでよー」
遥は背後を確認したが、追いかけてきてはいないようだった。日頃の運動不足が祟って、短距離なのに酷く息が上がるのが情けない。
「多少胡散臭くはあったけどさ、良い男だったのに」
確かに。全体のフォルムも良かったし、CGで作ったみたいに精巧な顔だった。あんな超絶ハンサムに写真撮られるなんて、考えただけで緊張する。
「行こ」
クリスマスシーズンの華やかなディスプレイやイルミネーションのように、なんだか現実感の薄い人だった。
横断歩道を渡りながら、佐藤陽向の真摯な表情を思い出していた。
⭐︎ ⭐︎ ⭐︎
天は二物を与えず
(一人の人に多くの才能や長所は集中しない)
と言うけれど。
才色兼備で文武両道、八面六臂(はちめんろっぴ)に活躍しちゃう人がいるのもまた、まごうことなき真実で。
仕事できる、背の高い美人、高学歴なのに威張らない上、友達思いのパーフェクトヒューマンとは遥……の同僚、中村美桜である。
「『Hinata Sato EXHIBITION 』、ここよ遥」
池袋駅から歩いてすぐの個展会場は、大通りに面したインポート雑貨店の二階にあった。雪の結晶を象(かたど)った可愛らしい電飾が、外階段の白い手すりで淡い光を明滅させている。
「滑りやすいから気をつけて」
「うん」
ヒール高めのブーツを履いてきたのは失敗だったかも知れない。遥は差し出された手をしっかり握って、雨に濡れた階段を上る。
佐藤陽向の個展に行こう、と言い出したのは美桜だった。街で貰った名刺には彼のウェブサイトも載っていて、そこで個展の案内を見つけたらしい。
『気になるの?』
鍋をつつきながら尋ねると、友人は男っぽい笑みで頷く。
『調べてみたら、佐藤陽向のポートフォリオは風景写真ばかりなのよ。人物もないとは言わないけど』
白菜の山をごっそり投入した後、美桜は菜箸を持ったままやや興奮気味に遥を見つめる。
『まだ一般にはそこまで知られてないけど、若手カメラマンの中では結構有名らしいよ?その人が遥を撮りたいって言うとかさぁ。気になる!ビッグチャンスかもよ?』
はしゃぐ同僚に半ば強制的に連れてこられたが、遥的には単に写真展自体が楽しみだった。
美術館や博物館に足繁く通うくらいには、様々な芸術作品に興味がある。ただのキャンバスや木材・石材が、一人の人間によって命を吹き込まれ意思を与えられた奇跡を目の当たりにするのが好きなのだ。
階段を上り詰めたところで傘を畳む。スチール製のシンプルな傘立てには色とりどりの傘が挿してあり、個展が盛況であることが窺い知れた。
「多そうだね、本人もいるかな?」
「別にいなくていいよ」
「何言ってるのよ、せっかく持ってきたんだから手渡さなきゃ」
美桜は紙袋から、ブルーを基調にした可愛いらしい花束を取り出した。
「うわ、花まで買ってきたの!?」
あまりの用意周到さに若干引くと、背の高い友人はニヤっと口角を上げる。
「当たり前じゃよ、遥ちゃんの今後がかかっとるんじゃからフォフォフォ」
「何キャラ!?」
花束を渡され、個展会場に足を踏み入れると受付のお姉さんが満月のような笑顔で二人に相対した。
「お花ありがとうございます、ここでお預かりすることもできますが……佐藤本人もそろそろ昼食から帰ってきますので、直接渡されますか?」
「いえ、ここで!」
美桜が何か言いかけるのを目力で制して、花束をお姉さんに預ける。お名前はと尋ねられて暫し考えた後、下の名前だけを告げた。
パンフレットの表紙には佐藤陽向のセルフポートレートが載っていて、遥はなんとなく目を逸らす。
会場は全体の照明を抑えてあり、天井からのスポットライトが作品たちを浮かび上がらせていた。
こういう空間に来るといつも思うのは、立ち止まって作品を眺める人々込みで一つのアートだということだ。公共の場で、芸術と向き合うごく個人的な活動を展開するなんて特殊な風景過ぎる。
佐藤陽向の作品は美桜が言っていた通り、風景や事物を対象にしているものが殆どだった。群像としての写真はあるが、特定の個人をモデルにはしないようだ。
「これ……」
奥まったスペースで、遥たちは立ち止まる。
『甲種一類の恋』と題されたその作品。モノクロな街の風景は鮮明だが、中心に映っている人物は手ブレ風にボケていて人相がはっきりしない。
「はるかさん」
振り返れば、今日も黒づくめの佐藤陽向が花束を手に微笑んでいた。