こちら最前線ですが、魔王はジョブチェンジした後でした。
こちら最前線ですが、魔王はジョブチェンジした後でした。
不意に吹き抜けたビル風に、僕は首を竦めた。今年は暖冬という予測が出ていたが、11月の夕暮れ時ともなると流石に冷える。
「ここか……」
待ち合わせ場所であるフレンチレストランはヨーロッパの古城を模した優美な造りで、結婚披露宴会場としても人気の店だ。
世界的に著名なシェフが監修する、繊細かつ美意識に溢れた料理は楽しみ……ではある。
トレンチコートの襟を立てて気合を入れる。ライトアップされた城館は美しく幻想的だが、今の僕は単騎で死地に飛び込む心境だ。
「蓮(れん)」
名を呼ばれ顔を上げた。
と同時に、暗い森を疾走する鋭い三連符が脳内に響き渡る。幼な子は必死に危機を訴えるけれど、最後までそいつの姿は父親に見えないし、聞こえないのだ。
「久しぶりだな」
螺旋階段の上に立つ兄陽向(ひなた)は、シューベルトの歌曲に出てくる魔王のように不吉な笑みをたたえて僕を見下ろしていた。
✳︎✳︎✳︎
兄は魔王と呼ばれていた。
クールな男前で背が高く、授業をサボりまくっていた割に成績は悪くなかったが喧嘩が滅法強かった。
『腹が座ってるというか、捨て身というか』
違う学校だったので直に見たことはないが、兄の友達だか崇拝者だかがそう評していたことを思い出す。一匹狼で徒党を組まなかったのも、カリスマ性を増す一因だったようだ。
同じ家に住んでいたのに、気安く話した記憶はごく幼い頃しかない。常に無口で不機嫌で気難しく、迂闊に近寄りがたい人というイメージ。
だったはず。
「ちょっと陽向(ひなた)、いい加減にしてくれる?」
「何がだよ?」
豪奢なシャンデリアの下で繰り広げられる目の前の光景は、僕の創り出した白昼夢じゃあないよね?
仕事の都合でオランダへ引っ越すことが決まり、一応お知らせしとくかくらいの軽い気持ちで連絡を入れたらその日のうちに返事が来たのがファーストインパクト。
既読スルーがデフォルトの兄から来た文面が『発つ前にメシでも』でセカンドインパクト。
「ちゃんと蓮くんと話しなさいよ。明後日オランダに行っちゃうんだよ?」
「もうちゃんと話しただろーが」
「会ってから今まで『久しぶりだな』しか言ってないでしょーが!」
小柄な彼女さんにボディーブローをくらってむせるフリをしているのが、学生時代魔王と恐れられた僕の兄陽向なのだろうか?
細マッチョの店員が、バージェス頁岩のごとき断面のケーキを置いて行く。
「あの、遥(はるか)さん、」
「気安く遥って呼ぶな」
「ヒッ」
地獄の底から響くような声にビビったら、魔王はほっぺをつねられた。
「威圧しない!『もっと蓮と普通に話しておけば良かった』って言ってたでしょ?」
「え……」
てっきり彼女さんに無理矢理連れて来られたのかと思っていた(あながち間違いでもなさそうだが)ら、兄さんがそんなことを。
「……」
「え?」
何か聞こえた気がするが、レストランのざわめきに掻き消される。
「……」
「ん?」
「ひーなーたー?」
遥さんの手がワキワキし始めたので、僕は慌てて手を振った。
「聞こえました!大丈夫です、今日兄と会えただけで良かったです!」
「蓮くんそれ聞こえてないってことじゃ……」
遥さんは眉尻を下げたが、笑顔で大丈夫を繰り返してケーキを頬張った。何を言ったか知らないけれど、これ以上聞き返して魔王を怒らせたくない。
コーヒーでコース料理の全てが終了し、僕たちは席を立った。
「私お化粧直してくるからここで待ってて!」
クロークまで辿り着いたところで、遥さんが唐突に走り去る。
ヒールの高い靴であの速度……素晴らしいバランス感覚と脚力だ。などと呑気に見送っていたが、背後に気配を感じて振り向いた。
「蓮」
「ハィッ!」
約10年ぶりに再開した実兄は、おもむろに僕の肩に手を置く。なんだなんだ、彼女がいない間にぶっ飛ばされるのか?
「元気でな」
「あ……うん」
さっきモニョモニョ言ってたのはこれだろうか。いや、魔王全盛期にはこんな普通の会話も夢のまた夢だった。
「これやる」
「え、あ、ありがとう」
手渡された封筒は遥さんが準備してくれたのだろう、心遣いまで細やかな恋人で羨ましい。
「素敵な人だね……あっいや、そうじゃなくて」
独占欲丸出しの兄をそっと窺う。
激怒していると思いきや、毒気のない微笑みに出会って言葉を失った。元々顔の造形が整っているので、こういう表情をすると高潔な騎士か王子のようだ。
「俺のだぞ」
宣言した声も、甘く自信に満ちていて神々しささえ感じられた。母さんと折り合いが悪く荒れていた兄は、僕が知らぬ間に唯一無二の居場所を見つけられたようだ。
「ジョブチェンジしたんだね、兄さん」
かつて魔王と呼ばれた男は小首を傾げ、少し考えてから僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
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