Trick or Treat
Trick or Treat
その夜、鈴木遥(はるか)は1DKの自宅で仕事に没頭していた。
脱社畜、働き方改革が声高に叫ばれる昨今。なるべく持ち帰りはしないよう努力しているというのに、退社時間間近になって部長が現れた。
『これ明日までにやっといて』
オイオイ、あと15分で帰るんですが?
控えめに言っても殺意が湧いたが平社員に拒否権はない。締切までの時間は十分とってくださいね、と常々言っているのに馬耳東風だ。
会社でしかできない分を素早く処理して逃げるように退社した。
「うーん」
パソコンの前で伸びをして、だらしなく脱力。壁時計に目をやれば23時を過ぎたところだ。
ちょっと休憩するかと立ち上がると、強張った筋肉があちこち軋む。空のコーヒーカップをシンクに置いたと同時に、玄関のドアが開く音がした。
「え?」
つきあって一年になる陽向(ひなた)だろう。小学生も真っ青の早寝早起き男である彼がこんな時間に、しかも連絡も寄越さずやってくるのは珍しい。
遥は電気ポットで湯を沸かし、ミルにコーヒー豆を計り入れる。静まり返った夜半の秋にガリガリと豆を挽く音が響いた。
恋人はなかなか姿を見せない。
有り得ないし考えたくもないけれど、もしかして強盗が合鍵で入ってきた可能性もなくはない。
念のためモップを手に玄関へ忍び寄ると、紙袋を被った陽向が突っ立っていた。目の部分だけ穴が開いた袋には、クレヨンで描いたのだろう鮮やかなオレンジ色。
「……何してんの?」
「Trick or Treat(お菓子をくれなきゃイタズラするぞ)」
遥は眉をしかめる。
そうだ、すっかり失念していたが今日はハロウィン当日だ。先週の土日は渋谷の交差点がカオスで、ご飯を食べようと二人で出かけたら酷い目に遭ったんだっけ。
「それもしかしてハロウィンの扮装?」
オレンジ色はカボチャのつもりだったか……カメラマンのくせに絵心がないとは意外な発見だ。マント代わりの黒布は、現像室の暗幕を引っぺがしてきたに違いない。
「Trick or Treat 」
扮装にしては、やっつけ仕事感が否めない。これは今日がハロウィンだと急に思い出してやって来たな。
「Trick or Treat ねえ……」
食べかけのチョコレートはあるが、ハロウィン用に可愛くラッピングされたお菓子など準備していない。
何より、人混みに揉みくちゃにされながら『ケルトのお祭りをどうして日本で祝うんだよ……衣装屋と製菓メーカーの思う壺やん』と毒づいていたのはキミだよね?
そこまで回想して気づいた。何故こんな夜更けに、ハロウィンに懐疑的な彼氏がわざわざ仮装までして来たのか。
あの時陽向の愚痴に同意しつつも、遥はこう答えたのだ。
『お祭りって、お互いの絆が深まるために昔の人が考えたんじゃないかな。仲良くなるのに大事なことかもよ?』
「Trick or Treat」
さて、本日3回目のトリックオアトリート。背の高いジャック・オー・ランタンは所在なさげに遥の返事を待っている。
何気なく口にした言葉を、大切に受け止めて行動に移してくれる相手がこの広い世界に何人いるのだろう。
「鳥頭の部長に、爪の垢煎じて飲ませてやりたい」
陽向は小首を傾げる。不格好なカボチャが描かれた紙袋はわしゃわしゃと音を立てるから、遥の呟きは聞き取れなかったらしい。
まさか、この格好でエントランスを潜ったのかな。誰にも見られてないと良いけれど。
遥はモップを立て掛け、笑顔で紙袋に手を伸ばした。
「Trick please.(イタズラして?)」
耳許で囁いたら、恋人は一瞬で首筋まで赤くなった。
---------------------------
はるかひなたシリーズ2はこちら